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日本人ドライバーガイドのブログ

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コンピエーニュ

コンピエーニュ

2015年01月31日

コンピエーニュの中心地

 

森の案内板

 

調印場所(奥は博物館)

 

客車が置かれていた場所

 

ルノーの戦車

 

フランス北東部の人口4万人ほどのコンピエーニュという町は、日本人観光客もほとんど訪れことはないでしょう。

私自身も、個人旅行のお客様をパリでお迎えするためにドイツから寄り道をした場所なのです。

1430年、コンピエーニュ攻防戦でジャンヌ・ダルクが捕らわれた町、ということは私も知りませんでした。

この町に立ち寄ったのは、1918年11月11日にドイツ軍がフランスに対して休戦に署名した場所であると同時に、フランスに快進撃を続けてフランスから降伏をもぎ取ったヒトラードイツが、第一次大戦の休戦の署名をしたその客車の中で、フランスに降伏の調印をさせた、という歴史的な場所である、という理由です。

調印が行われたのは森の中に置かれた客車の中ですが、その場所には記念碑が置かれ、博物館の中には車両が保管されています。

ただ、この車両はレプリカだそうで、オリジナルはドイツ軍によって破壊されました。

博物館内の車両が写真撮影禁止なのが惜しまれます。


 

ベルクフライハイト

ベルクフライハイト

2015年01月31日

白雪姫と7人の小人たち

 

郷土博物館

 

銅鉱山跡

 

白雪姫の家

 

こういう服装をさせられます

 

フランクフルト近郊のハーナウから北ドイツのブレーメンまで続いているドイツ・メルヘン街道ですが、あまり頻繁にご案内することはありません。

このベルクフライハイトという村は、私も知らなかった場所で、ロンドンに住むお客様が、「ぜひとも白雪姫の舞台となったこの村に行ってみたい」、というリクエストで実現しました。

このベルクフライハイトは直訳すると、「山の自由」、という意味ですが、日本語でも鉱山のことを「ヤマ」と呼ぶと同じように、「ベルク」というのは「鉱山」という意味でもあります。

ここに銅の鉱山があったのですが、鉱山労働者は様々な優遇措置を取られていたために、「山の自由「という名前がそのままこの村に名付けられたのだとのこと。

ここの鉱山は13世紀の中頃から17世紀まで採掘が行われていました。

この地方が白雪姫の発祥の地と言われ、モデルになったのは、ここの領主の娘のマルガレーテ・フォン・ヴァルデックという女性で、7人の小人は、鉱山労働に従事するのは子供が多かった、という理由によるものだそうです。

1736年に建てられた木組みの家は、白雪姫の家として公開されていますが、この中で小人の服装をさせられます。




 

ツェレ

ツェレ

2015年01月25日

ツェレのお城

 

お城の庭園

 

木組みの町並み

 

 

こういう家も

 

北ドイツ、ハノーヴァーの近郊で、エリカ街道の小さな町ツェレは、人口約7万人を抱えるのですが、旧市街はきれいな木組みの家々が並んでおり、町の北のお城とともに、非常に見応えのある町になります。

メルヘン街道を個人旅行するお客様をご案内し、時間がある時はこの町を訪れることにしているのですが、最後に行ったのは3,4年ほど前になるでしょうか。

あまり日本人の訪れることのない町になります。

ここから15キロほど離れた場所には、アンネ・フランクが亡くなったベルゲン・ベルゼン強制収容所跡があり、この場所も見逃せません。

 

ベルリンの壁

ベルリンの壁

2015年01月07日

西ベルリンから見た壁

 

1980年当時のチェックポイントチャーリー

 

現在のチェックポイントチャーリー

 

壁の跡

 

旧東ベルリン側に描かれたイースト・サイド・ギャラリー

 

忘れもしない1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊してから、すでに25年を以上も経ってしまいました。

その壁が崩壊する前の1980年から85年初頭まで、音楽家の端くれとして、ポーランドとの国境沿いのゲルリッツという町の劇場に勤務していましたが、いま思えば、「よくあんな国に住んでいたなー」と思うと同時に、「いい経験をさせてもらった」、とも思っています。

その後、日本に帰国したのですが、8ヵ月後に再度西ドイツに渡り、86年からハイデルベルクで日本からいらしたお客様のための日本人ガイドとして活動を始め、1992年からは個人旅行の方を対象にリムジンサービスを創立いたしました。

旧東ドイツが存在する時代には、「まさかあのベルリンの壁が崩壊する」などとは、私はもちろん誰一人として想像できなかったでしょう。

同時に、日本からのお客様をご案内する個人ガイドを始めるとは、自分でも考えもしなかったこともあり、ベルリンの壁、その当時の東ドイツの様子を写真に撮ったのはほとんどありませんが、その数少ない写真と、崩壊後の様子の写真を掲載すると同時に、ベルリンの壁の建設から崩壊までについての経緯をご紹介させていただきます。

詳しくは、旧ホームページの「ベルリンの壁の話」をご覧ください。

 

アッペンツェル・ジルヴェスタークロイゼ

アッペンツェル・ジルヴェスタークロイゼ

2015年01月07日

 

 

 

 

 

個人旅行のお客様をドイツからスイスに抜けて、アッペンツェル地方に伝わる、「ジルヴェスタークロイゼ」という行事を見に行きました。

実は、長年ドイツ、スイスなどを日本人ガイドとしてご案内している私でも、このアトラクションを見るのは初めてなのです。

日本人観光客もほとんどおらず、これこそ個人旅行の醍醐味と言えるでしょう。

これは大晦日、そしてユリウス暦で大晦日にあたる1月13日に行なわれるのですが、全身に木の枝をまとったグループ、大きくてきれいな帽子をかぶった一団が、ヨーデルを歌い、そして身体にまとった大きなカウベルを鳴らして、各家々を巡回します。

日本で言うと、「厄除け」と言うことでしょうか?

Yutubeにも掲載しましたので、ご覧ください。







 

アルトドルフ

アルトドルフ

2015年01月07日

ウィリアム・テル親子像

 

フルカ峠

 


スイスの4つの湖の国の都ルツェルンから、イタリア方面に車を走らせると、アルトドルフという人口8,600人の町に到着します。

この地方3州が1291年にスイスの発祥の地となった場所で、この町で、かの有名なヴィりアム・テルが、息子の頭に乗せたりんごを見事に射抜いた場所、と言われています。

この伝説を劇化したのが、ドイツのフリードリッヒ・シラーですが、シラーはスイスに行ったことがない、と聞いています。

この町の中心地には1895年に建てられたテル親子の銅像が立っており、毎年お芝居が上演されます。

私自身は、個人旅行のリピーターのお客様で、ドイツからスイスに抜け、ルツェルン経由でアンデルマット発の氷河特急にお乗せするために立ち寄りました。

私はその後、荷物を載せたままフルカ峠を越えてツェルマットまで追いかけた、と言うわけです。



 

アルデンヌ地方

アルデンヌ地方

2015年01月07日

バストーニュのマルクト広場に展示された戦車

 

博物館に展示されたドイツ軍戦車

 

ディーキルヒに展示された米軍戦車

 

ドイツ軍兵士

 

連合軍弾薬

 


ドイツ個人旅行でのお客様をトリーアにご案内したのですが、丸一日空いたので、ルクセンブルク北部、ベルギーにまたがる森林地帯、アルデンヌ地方に足を伸ばしてみました。

ここは、第二次世界大戦末期の1944年12月に、ドイツ軍が最後の望みをかけて大攻勢をかけ、連合軍は大混乱となるのですが、結局はドイツ軍は燃料と弾薬不足で敗退し、逆に連合軍の進撃に拍車をかけることになりました。
 
この地方の激戦地、バストーニュとディーキルヒの戦争博物館に寄ってみました。

 

アウシュヴィッツ

アウシュヴィッツ

2015年01月04日

「働けば自由になる」と掲げられた
アウシュヴィッツ基幹収容所の門


 

有刺鉄線で囲まれた収容所の建物


 

ビルケナウの引込み線と管理棟


 

厩舎を利用したバラック


 

破壊されたガス室跡


 

ドイツ|日本人ガイド|個人旅行|アウシュヴィッツ|ホロコースト
ドイツ好きが嵩じてドイツに住むことになり、日本人ガイドとして個人旅行のお客様をご案内しており、お客様はドイツに対してポジティヴな憧れを持っていらしているわけで、あまりドイツのマイナス面の話はしたくないのですが、お客様には、ありのままのドイツを知っていただけるよう、そういう話もなるべくするようにしています。

そのマイナス面の最たるものが、ヒトラー時代のホロコースト(ユダヤ人虐殺)であることに異を唱える方はいらっしゃらないでしょう。

その舞台となったアウシュヴィッツは、実はドイツではなく、ポーランドにあります。

1940年から、ポーランド軍の捕虜、レジスタンス、政治犯などを収容するために最初の収容所(基幹収容所)が建てられ、41年に第2収容所・ビルケナウが建てられました。

シンドラーのリストなどに出てくる鉄道引込み線と管理棟のシーンは、このビルケナウの収容所のもので、収容者は厩舎として作られた建物に収容されました。

この地にユダヤ人を強制連行し、労働に役立つ人たちは、周辺の軍事工場、鉱山などに安い労働力として送られ、そうでない、お年寄り、子供たちは、即時ガス室に送られて殺害されました。

青酸ガスチクロンBによる大量殺人は、ナチスドイツが戦争に負け始めた1942年から始められますが、基幹収容所とビルケナウに設置された合計7ヶ所のガス室で行われ、ヨーロッパ各地から強制輸送されたユダヤ人の110万人が殺害されたとされています。

私自身も、ユダヤ人の歴史に非常に興味があり、特にホロコーストに関しては、「チェロを弾く少女アニタ」と、「ホロコースト全証言」という本を翻訳したことがあります(後者は共訳)。

また、アウシュヴィッツ博物館発行の解説書を自分で訳したこともあり、もう一度この地を訪れ、2,3日間をかけて現場検証のようなことをして、当時の様子を再確認したいと思っております。

写真は、15年ほど前に訪れた際に撮ったものですが、デジカメを持っていなかったのが惜しまれます。




 

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