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日本人ドライバーガイドのブログ

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アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 6

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 6

2016年06月23日

 

こどもが学校に行く風景



 

子どもたちが遊んでいる風景



 

バラック内部



 

女性収容所内の16aバラック内部の壁に壁画が描かれていました。

これは、特別に家族で収容を許された人たちが、子どもたちのために、「できるだけ日常生活の雰囲気を出してやろう」という気持ちで、親衛隊の許可を得て描かれたものと聞いています。

学校に行く子供の風景、子どもたちが遊ぶ風景など、両親たちの気持ちがよく現れています。


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より詳しいお話をご希望の方は、 Facebook:https://www.facebook.com/junichi.fujishima.5
あるいは、
ブログ:「ドイツ個人旅行のエキスパート藤島の旅がらす日記」をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/j_fujishima/



 

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 5

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 5

2016年06月22日

プラットホームに置かれた収容者たちの荷物

 

カナダ跡地

 

死のブロック

 

死のブロック内部

 

メンゲレ博士に人体実験された子どもたちのバラック跡

 

到着した人たちの荷物は、そのままプラットホームに残され、「カナダ」と呼ばれる倉庫で収容者達によって細かく仕分けされ、まとめてドイツ国内に運ばれました。

資源豊かな国であるカナダから名前が取られたと言われています。

また、ガス死した人たちの金歯などは、ゾンダーコマンドによって抜かれ、溶かされて延べ棒の形で帝国銀行に送られました。

収容者で「もはや死を待つしかない」と思われた人たちは、「死のブロック」とおバレルブロックに移され、ガス室に送られるのを待つだけにされました。

また「死の天使」と呼ばれたメンゲレ博士は、双子の子どもたちの人体実験を行いました。

このアウシュヴィッツで死亡した人たちの人数は110万人と言われています。

また、アウシュヴィッツに収容されていた人数は、1944年8月21日の記録では10万4878人とされています。

 

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 4

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 4

2016年06月22日

第4ガス室

 

第5ガス室

 

骨を捨てた池

 

サウナと呼ばれた建物

 

シャワー室

 

第3,第4ガス室は、地上階に造られました。

ビルケナウ強制収容所での死体焼却能力は合計約4千体でした。

燃料はコークスを使いましたが、節約するために、脂肪の多い女性と男性を一緒に焼却炉に入れるような工夫もされました。

残渣物の骨は砕かれ、焼却場付近の池や川に捨てたり、肥料に利用されました。

生きることを許された人たちは、「サウナ」と呼ばれる建物で体中の毛髪を剃られ、シャワーを浴びました。

 

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 3

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 3

2016年06月22日

第3(2)ガス室の模型

 

第3ガス室跡の脱衣場入り口

 

第2ガス室跡

 

第2ガス室跡

 

ゾンダーコマンドが秘密に撮った野焼きの写真

 

ビルケナウにはガス室が4ヶ所あり、第2,第3ガス室は脱衣場とガス室が地下、死体焼却場は地上に造られました。

「シャワーを浴びる」と聞かされた人たちは、脱衣場では、「後で見分けがつくように靴を紐で結ぶように」指示されました。

ガスで殺戮された死体は、「ゾンダーコマンド(特別作業班)」と呼ばれ、他の収容者よりも食料配布などがよりよいものを与えられました。

それでも、ザンダーコマンドの人たちも、いずれはガス室に運ばれる運命にあったのです。

1944年5月からハンガリーからのユダヤ人輸送が始まり、焼却場では処理しきれないために、野焼きが行われました。

 

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 2

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 2

2016年06月22日

プラットホーム

 

到着した人たちが並べられている様子

 

プラットホームの前の建物

 

ガス室に送られる人たち

 

ガス室の模型

 

ヨーロッパ各地から強制輸送の貨車に乗せられて一度に約千人もの人たちがこの地に送られてきました。

貨車から投げ出されるように降ろされた人たちは、男女別に並ばされ、生死を分ける選別を受けましたが、それに従事する収容者たちは、到着した子どもたちには、「年齢を聞かれたら14歳だと応えろ!」、子供連れの若い母親には、「子供から手を離せ!」と囁き、できるだけ生存者を残すように声をかけました。

 

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 1

アウシュヴィッツ-ビルケナウ強制収容所 1

2016年06月22日

引込線と司令塔

 

収容所見取り図。左からB1,B2,B3収容所。
B1は後の女性、B2は男性、B3はハンガリーからの女性が収容されました。



 

バラック内部

 

木造バラック内のトイレ

 

レンガ造りのバラック

 

1941年10月、アウシュヴィッツ基幹構成種幼女から約3キロほど離れた場所に、1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)の敷地にビルケナウ強制収容所が開設されました。

この収容所には、最初なレンガ造りのバラック、その後に。本来であれば52頭の馬を収容する厩舎を使用した木製バラック群が設置されました。

よく映画などで紹介される司令塔を通る引き込み線は、1944年5月にハンガリーからの約40万人のユダヤ人を受け入れるために設置されたものになります。

労働に耐えられない老人や14歳未満の子どもたちは、左に寄せられ、そのままガス室に送られました。


 

アウシュヴィッツ強制収容所 6

アウシュヴィッツ強制収容所 6

2016年06月22日

チクロンB

 

ガス室外部

 

ガス室内部

 

ガス投入口

 

死体焼却炉

 

元々は殺虫剤として開発された生産ガス系化合物チクロンBが殺戮に使用されたのですが、1500人を殺害するのに5-7キロ使用され、所掌時間は15-20分程度でした。

この収容所に残されているガス室は、戦後再建されたものになります。

 

アウシュヴィッツ強制収容所 5

アウシュヴィッツ強制収容所 5

2016年06月22日

収容者たちの名前が書かれたトランク

 

義足やコルセット

 

食器類

 

メガネ

 

 

多くの国から輸送されてきたユダヤ人の持ち物は略奪され、収容者達によって仕分けされてからドイツ本国に送られました。

髪の毛はフェルトの材料、時計などはドイツ軍兵士に支給され、今でも膨大な量の仕分けされた品物が展示されています。

 

アウシュヴィッツ強制収容所 4

アウシュヴィッツ強制収容所 4

2016年06月22日

オーケストラが演奏した場所

 

「働けば自由になる」と表示されたゲート

 

強制労働の様子。
カポ(監督囚人)に急き立てられて労働する様子。

 

 

売春施設だった24aブロック

 

収容者たちは、劣悪な生活環境の中で、周辺の軍需工場などで過酷な労働を強いられたのですが、毎日、門の前でオーケストラが演奏する行進曲に合わせて、「Arbeit macht frei(働けば自由になる)」と表示されたゲートを通って強制労働に向かわされました。

ゲートのそばの24Aブロックには、後に収容者たちの労働を鼓舞する目的で、女性収容者を利用した買収宿が設置されました。



 

アウシュヴィッツ強制収容所 3

アウシュヴィッツ強制収容所 3

2016年06月22日

収容所見取り図

 

収容所の建物

 

人体実験が行われた10番ブロック

 

支給された食べ物

 

懲罰ブロックと呼ばれた11番ブロック

 

1940年5月、親衛隊長官ハインリッヒ・ヒムラーは、ポーランドのオスヴェンチムにあるポーランド軍駐屯地であった敷地に強制収容所が開設されました。

レンガ造りの約30棟からなる収容所には、最初はポーランドの政治犯やソ連軍捕虜など、後にはユダヤ人などが収容され、建物の中のわらを敷いた部屋に寝かされましたが、後に木製の3段ベッドが置かれました。

ユダヤ人の絶滅を図るために、10番ブロックでは女性には外科手術、レントゲン線放射などによる不妊処置の人体実験が行われました。

毎日支給される食事は、1500-1700カロリーで、朝はコーヒーと呼ばれる出し汁、昼は薄いスープ、夜は約300グラムのパンと約30グラムのジャムはソーセージが支給され、収容者たちは急激にやせ衰えていきました。

医療設備もなく、「生き残らない」と判断された人たちはガス室に送られるか、フェノールを心臓に注射されて殺害されました。

11番ブロックは懲罰ブロックと呼ばれ、ここの地下で600人のソ連軍捕虜と250人のポーランド人に対する最初のチクロンBを使ったガス殺戮が行われ、他の収容者の代わりに飢餓死刑を受けたマキシミリアン・コルベ神父の懲罰房が残されています。

また、10番と11番ブロックの間にある中庭では銃殺刑が行われ、その壁は死の壁と呼ばれています。


 

アウシュヴィッツ強制収容所 2

アウシュヴィッツ強制収容所 2

2016年06月12日

受付バラック

 

番号を刺青をするための道具

 

個人登録カード

 

収容者たちの写真

 

収容者別のワッペン

 

ガス室行きを逃れ、労働力として一時の期間、死を逃れた人たちは、全身の毛髪を刈り取られた後で受付バラックで収容者番号を左腕に刺青され、写真を撮られて個人カードの登録されました。

また、この収容所には政治犯、戦争捕虜、ユダヤ人、非社会的人物、ものみの塔信者、聖職者など、さまざまな人達が収容されていましたが、それぞれに違ったワッペンを左胸に縫い付けられていました。



 

アウシュヴィッツ強制収容所 1

アウシュヴィッツ強制収容所 1

2016年06月07日

ユーデンランペ(ユダヤ人の降車場)と呼ばれた場所。
強制輸送された人たちはここで降ろされ、「労働か死か」の選別を受けました。


 

降車場の建物


 

貨車で到着した人々の様子


 

引き離される人々


 

数百メートル先に見える収容所バラック


 

ヒトラーとユダヤ人に対するホロコーストに関しては、ドイツの大きなマイナス点であることに異を唱える人はいないでしょうし、この件に関する質問がお客様から出た場合、ドイツ在住の観光ガイドを生業としている身としては、ある程度納得いただける説明をするのは、ガイドとしての義務でもあります。

すでにこの地を2回訪れていたのですが、原書房から出版された、「チェロを弾く少女アニタ」と、「ホロコースト全証言」という書籍の翻訳に関わった身としては、もう一度この地を訪れ、されに詳しく現場検証なことをするつもりで訪れました。

ポーランド語で「オスヴェンチム」というこの町のポーランド軍の駐屯地後に1940年5月に第一収容所の基幹収容所(シュタムラーガー)、41年10月にはビルケナウ収容所、42年からは工場地帯のモノヴィッツ収容所、さらに周辺の炭鉱など約45ヶ所の外郭収容所が置かれました。

最初はポーランドの政治犯が収容されたのですが、41年6月にソ連侵攻以来、ソ連軍捕虜、そして戦争の激化とともにドイツに侵略された国々のユダヤ人が強制輸送されてきました。

特に有名なのはアウシュヴィッツ-ビルケナウ収容所ですが、ユダヤ人をはじめ、ポーランド人、ソ連軍捕虜、シンティ・ロマ、同性愛者、エホヴァの証人、聖職者など、合計約110万人が犠牲になったと言われています。




 

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