ハイガーロッホの原子力研究博物館
ハイガーロッホの原子力研究博物館
シュツットガルトからアウトバーンを南下して100キロほど行くと、ハイガーロッホという人口2千人ほどの小さな村があります。
第二次世界大戦も敗北が決定的になったナチスドイツは、かつては鉄道トンネルとして開けられ、当時はビール工場の倉庫として使用されていた洞穴を利用して、原子爆弾の研究のために利用し始めました。
すでに戦前の1938年にオットー・ハーンは「核分裂」を発見したのですがが、ナチスドイツが兵器としてその利用研究を本格的に開始した時はすでに遅く、アメリカと比べてかなり幼稚なスケールの研究であったことが、この博物館で知ることができます。
小さな博物館ではありますが、オットー・ハーンが考案した最初の実験装置、サイコロ状ウランを使用した反応炉など、原爆の研究をドイツも行っていたということを知る上で非常に興味深い印象を与えてくれます。
ハイデルベルク大学の学生牢
ハイデルベルク大学の学生牢
ハイデルベルク大学には1712年から1914年まで実際に使用された学生のための牢屋があります。
いわゆる、大学の自治権と言うもので、悪さした大学生の処罰を警察ではなく、大学が処分していた、と言うわけです。
さすがに凶悪犯ともなるとそうも行かないのでしょうが、たとえば、酔っ払って大騒ぎした学生は最低3日間、警察と一悶着を起こした場合は最高で4週間入れられたそうです。
最初はそういう学生たちが入っていたのですが、やんちゃ多額勢たちのことです。
「ハイデルベルク大学の学生で、この牢屋に入らない奴はもぐりだ」、と言われるようになり、誰でもが一度は体験したそうで、ハイデルベルク大学の卒業生は全て前科者と言うことになります。
ここには、その学生が描いた落書きが残っているのですが、この落書きは記念物となっているので、ここを訪れる方は落書きはしてはいけません。
何を隠そう、この落書きは、日本の私立大学連盟が修復費を出して修復されたものだと聞いています。
ここを訪れる日本の大学生で、「〇〇大学」、と落書きをして行く輩が後を絶たなかったのでしょう。
大学当局から日本大使館、文部省を通じてクレームが届き、修理費を出すことになったのでしょう。
日本では落書きをしたことがばれると社会的に抹殺されますので、くれぐれもご注意くださいね。
ハイデルベルク城
ハイデルベルク城
ハイデルベルク城は、プァルツ選帝侯の居城として14世紀から始まり、その時代の流行、経済事情などによって様々な形式で建造されましたが、ルイ14世によって17世紀の終わりごろに破壊された後、再建が始まるのですが、1786年の落雷によって3日3晩炎上した後は、廃墟となってしまいます。
現在では、19世紀の廃墟としての状態を現在まで受け継いでいます。
また、地下には現存する物では世界最大、22万リットル入りのワイン樽が置かれています。
ハイデルベルクの町並み
ハイデルベルクの町並み
ちょうど私の世代まで、ドイツに興味のある人たちにとって、「ドイツ」、と言えば、「ハイデルベルク!」、と言われるほど、この町は有名な町になります。
私がこの町に住むことを選んだのは、「ドイツで日本人ガイドをしよう。ドイツと言えばハイデルベルクが日本人にとっては一番の町なのだから・・・・」、ということに他なりません。
この町はドイツで最古の大学町として、そして戦災に遭わなかった数少ない町のひとつとして、世界中から観光客が集まってきます。
見所は何と言っても、城跡と旧市街、哲学の小道といった、賑やかさの中にも、何となく落ち着いた雰囲気を味わえる多くの場所です。
ネルトリンゲン
ネルトリンゲン
ロマンチック街道のローテンブルクから南下して75キロほど行くと、遠くに高い教会の塔が見えてきます。
ネルトリンゲンというこの町は、この聖ギョルク教会を中心として、きれいに円形状に城郭で囲まれ、5つの門と11の塔で守られていました。
1634年、30年戦争の折に、この町で大激戦が行われたおかげで、当時の人口7800人が3800人まで減少し、それ以来、ずっと歴史の中から取り残され、1939年になって初めて7800人の人口が回復しました。
また、1500万年ほど前、この町のf金に、直径1500メートルの隕石が時速10万キロのスピードで落ち、この周辺に深さ2千メートル、直径25キロのクレーターを形成し、その影響で特殊な石が形成され、その石で建造されたのが、91メートルの高さのある聖ギョルク教会といわれています。
時間がある方で、約350段の階段を登る体力の自信のある方はどうぞ上にいらしてください。
天気の良い日には、はるか周辺の外輪山の様な山々、円形状の城壁、そして立ち並ぶ赤い屋根の木組みの家などを堪能できます。