オーベルンドルフ(オーストリア)
オーベルンドルフ(オーストリア)
モーツァルトの生まれたザルツブルクから、30キロほどザルツァッハ川を下流に行くと、人口8千人ほどの小さな町オーベルンドルフに出ます。
ここが、クリスマスになると世界中で歌われる「聖しこの夜」の生まれた町になります。
1818年のクリスマスイブの朝、ニコラウス教会の助神父であったヨーゼフ・モーアが、「今夜の礼拝に子供たちに歌わせたい」と作詞し、友人のハインツ・グルーバーに作曲を依頼しました。
折りしも、教会のオルガンが壊れていたために、彼はギターを使って曲を書き上げました。
その後、この曲は見本市を渡り歩く商人や、旅職人たちによってドイツ中に、そしてヨーロッパ中に広がっていきました。
このニコラウス教会は洪水で流されたのですが、その場所に小さな「聖夜礼拝堂」が建てられ、現在ではその隣に洪水で残された給水塔と博物館が建っています。
アーヘン
アーヘン
アーヘンは人口約26万人、ドイツ最西端の町で、ベルギー、オランダと国境を接し、町並みも何となくその両国の影響も受けているような感じがします。
この町には鉱泉が出ており、町の名前も、古いドイツ語の水を意味する「aha」から来ています。
最初はローマ人が温泉保養地として町を発展させ、8世紀末にフランク王国のカール大帝王宮を置いたことで、この町がフランク王国の首都となりました。
この町では、すでに述べたように、歴代の神聖ローマ帝国の皇帝が大聖堂で戴冠式を行い、町の最大の見所となっているのですが、市役所や、きれいな町並みも見逃せません。
また、後に世界の音楽界の帝王として君臨するヘルベルト・フォン・カラヤンは、弱冠26歳でこの町の劇場監督となりました。
ところで、私がこの町をご案内するのは3,4回ほどあり、大聖堂だけではなく、市役所のホールjは見ごたえがある、ということで、訪問するたびに楽しみにしているのですが、閉館日だったり、工事中だったり、あるいは、お客様がお疲れで、といった理由で、いまだに中は見れずじまいになっています。なかなかうまくいかないもんですね。
ハイデルベルク−アルト・ハイデルベルク
ハイデルベルク−アルト・ハイデルベルク
ドイツはもちろん、ヨーロッパ各地に大勢の観光客が日本から来るようなると同時に、いわゆる周遊型の旅行が一般的になった今では、ハイデルベルクは数多くあるドイツの観光地のひとつとしてしか見られないかもしれませんが、旧制高校、旧制大学、1950年代、そして私が初めてヨーロッパに来た70年代あたりは、ドイツに興味がある方であれば誰でもハイデルベルクという町が最初に出てきます。
この町を日本人に有名にしたのが、マイヤー・フェルスターが書いた「アルト・ハイデルベルク」というお芝居で、これを読んでこの町に憧れた、大学のドイツ語のテキストだった。女学校時代に皆でお芝居をやったという人たちが多いのです。
ちなみに、明治時代にドイツ語を専攻する学生はこの作品を必ず読まされたとのこと。
私の中学校時代の英語の先生に、「えっ?!ハイデルベルク!私達の憧れの町なんですよ!」、と驚かれたこともあります。
この番匠谷英一氏訳による本は残念ながら絶版になったらしいのですが、私の記憶しているあらすじとしては、ある国の皇子様、カールハインリッヒがハイデルベルクに勉強にやって来ます。彼は学生酒場である「赤い牛亭」に下宿をするわけですが、ここにはケティという看板娘がおり、彼を迎える際に、こういう詩を捧げます。
遠き国よりはるばると
ネッカー川のなつかしき、
岸に来ませしわが君に
今ぞ捧げんこの春の
いと美わしき花飾り
いざや入りませわが家に
されど去ります日もあれば
忘れたもうな若き日の
ハイデルベルクの学び舎の
幸多き日の思い出を
ハインリッヒは自由奔放で楽しい学生生活を送り、そしてケティと恋に陥ります。
ところが、父が病気になり国に帰ることを余儀なくされ、さらには政略結婚をしなければならなくなるのです。
彼は一目ケティに会いたいが一心でハイデルベルクに戻り、ケティに会うことがかない、こう告げるのです。
わがハイデルベルクに対する憧れは
汝に対する憧れなり
我、汝に会うことを得たり
そしてまた別れん
さらばケティよ
こうして二入は永遠の別れを告げる・・・・。
というストーリーなのですが、その舞台となった居酒屋がちゃんとあるのです。
その名も、1730年から続いている「Zum roten Ochsen(赤牛亭)」と言い、その当時の学生たちの写真、落書きが残されており、夜にはピアノ演奏が加わって雰囲気を高めてくれます。
エギスハイム(フランス・アルザス地方)
エギスハイム(フランス・アルザス地方)
フランス・アルザス地方のコルマールから7キロほど離れた場所に人口1600人ほどの小さな村エギスハイムがある。
実は、この村が私は大好きなのです。
8角形状に作られたこの村は、端から端まで歩いて5分ぐらいで通過できるような本当に小さな村なのですが、そこには天井の低い小さな木組みの家が、それこそ隙間を置くことなく並んでいます。
この村は7世紀に作られましたが、1002年に後のローマ法王レオ9世が生まれており、それを記念して1809年に町の中心にビザンチン様式の聖レオ礼拝堂が建てられました。
12世紀に造られた城壁は、19世紀にそのほとんどが撤去されましたが、旧市街はそのまま残っており、フランスで最もきれいな村のひとつと言われています。
ヴィース教会
ヴィース教会
ノイシュヴァンシュタイン城のあるホーエンシュヴァンガウからロマンチック街道を北上してシュタインガーデンから分かれて5分ほど行くと、「Wieskirche」の表示が見えてきます。
1738年、ここに住むある農家の婦人が、鞭打たれる粗末なキリスト像を譲り受けたのですが、6月14日、この像が涙を流していたのに気がつきます。
「これは奇跡だ!」という噂が広まり、奇跡を求めて小さな礼拝堂に奉ったこのキリスト像を拝む巡礼者が次々と訪れたため、浄財を募ってこのキリスト像を安置するための教会が建設されました。
設計はイタリア系のドメニコ・ツィンマーマンによるもので、最終的に完成したのは1757年、ドイツロココ様式の建造物の最高傑作と言われています。
ツィンマーマンは、多くの建築を手がけたのですが、この教会がひどく気に入り、亡くなるまで現在はレストランとして使われている隣接する家に滞在しました。
この教会は、その名の通り、「Wiesen(ヴィーゼン)野原」の中に造られた教会で、1983年にユネスコの世界遺産に指定されました。
中は絢爛豪華なロココスタイルの装飾、天井画が描かれ、祭壇の中央奥には鎖で捕縛されたキリスト像が置かれています。
つい最近、新しいパイプオルガンが設置されました。
残念ながら、非常に交通の便が悪く、個人旅行の方がこの教会を訪れるにはフュッセンからタクシーを使った方が賢明でしょう。