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日本人ドライバーガイドのブログ

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ヴュルツブルク

ヴュルツブルク

2013年04月20日

アルテ・マインブリュッケからマリエンベルク要塞を望む

 

マリエンベルク要塞から見下ろした町の様子

 

レジデンス正面とフランコニア像

 

レジデンスの庭園

 

アルテ・マインブリュッケから旧市街を望む

 

人口約13万5千人のヴュルツブルクは、ロマンチック街道の出発点であり、終着点でもある町です。

この町は8世紀の初頭、アイルランドからこのフランケン地方にキリスト教を広めるためにやってきた聖キリアンの殉教地として中世より栄えた町になります。

1525年、ドイツ農民戦争の折、町を見下ろすマリエンベルク要塞をめぐって大激戦が行われ、その後、司教の居住するレジデンスが18世紀に建てられました。

このレジデンスには、ジョヴァンニ・バチスタ・ティアポロによる600平方メートルに及ぶ世界最大のフレスコ画があり、終戦間際の大空襲にも持ちこたえ、必見に値するものです。

また、幕末にオランダ商館の医師であったシーボルトはこの町の生まれで、1895年にレントゲンは、この町でx-線を発見しました。

現在では、ロマンチック街道の出発点として、日本から個人旅行でいらっしゃるお客様は、この町で1泊し、さらに電車、あるいはヨーロッパバスを使ってローテンブルクなどに向かいます。



 

ウィーン

ウィーン

2013年04月20日

ヨハン・シュトラウス像




 

ウィーン国立歌劇場




 

上ベレベデーレ宮殿からの町の様子




 

ホイリゲで生演奏を聴きながら食事


 

夏の離宮シェーンブルン宮殿

 

「音楽の都ウィーン、ということに異を唱える方はいらっしゃらないでしょう。

こういわれ始めたのはいったいいつごろからなのでしょうね?

1498年に聖歌隊として、今のウィーン少年合唱団が創設されたということですが、やはり、当時からオーストリアはもちろん、神聖ローマ帝国の皇帝として君臨していたハプスブルク家が、「テレビもねえ、ラジオもねえ」、という時代に、娯楽といえば、音楽を聴く、お芝居を見に行く、といったことから始まり、今のようにどこでもいつでもコンサートがあるというわけではない環境で、貴族たちが主催したサロンコンサートのようなものから始まったのではないか?

今で言えば、ホームパーティみたいな形で貴族同士が招待し合い、そこに音楽家を呼んでBGM演奏をさせる。

それが少しずつ演奏会のような形で開催され、次第にその規模が大きくなると同時に、貴族が音楽家のスポンサーとして若い音楽家を援助し、音楽家たちは活躍の場、勉強の場を求めてウィーンに音楽家が集まってくる・・・・という感じであったのでしょう。

音楽化の中で、なんといっても有名なのは、「交響曲の父」と呼ばれたハイドン。「神童」と呼ばれたモーツァルト、「楽聖」と呼ばれたベートーヴェン、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、アントン・ブルックナー、グスタフ・マーラーなど、数え上げればきりがないほど、音楽家の名前が出てきます。

「東京ではいつでも、どこでも芸者遊びができるか?」、と問われれば、「ノー」、ですが、「ウィーンではいつでもどこでもウィンナーワルツが聴けるか?」、と問われれば、自信を持って、「イエス!!」、と応えることができます。

もちろん、ウィーンフィルハーモニーの演奏会、というわけには行きませんが、観光客のために、色々なオーケストラが演奏会を催しており、それなりに立派な演奏であるし、何よりも、和気藹々とした雰囲気で、純粋に音楽を楽しむことができるのです。 





 

イーペル(ベルギー)

イーペル(ベルギー)

2013年04月20日

1918年当時の破壊された町(絵葉書から引用)



 

復元された織物会館



 

織物会館内部の展示



 

戦争犠牲者の慰霊碑



 

消灯ラッパの儀式



 

ベルギーのイーペルという人口3万5千人ほどの町は、日本人にはなじみのない町なのですが、14世紀にイギリスで書かれた「カンタベリー物語」に出てくるように、中世の時代には織物で非常に栄えた町で、この時に建てられたのが町の中心の織物会館です。

第一次世界大戦時、中立国であったベルギーをドイツ軍が侵入し、この町をめぐって数度にわたるドイツ軍とイギリス、カナダ軍の攻防により、町は徹底的に破壊されます。

大規模な毒ガスを使用した戦闘もここで行われ、「イペリットガス」の名前も、ここから呼ばれるようになりました。

現在では、町全の中心は見事と思えるほどに復元され、「平和都市」と呼ばれるようになり、初めて原爆が使用された広島とパートナー都市となっています。

復元された織物会館は戦争時の資料が集められている博物館として公開されています。

また、町を防衛したイギリス、カナダ軍の犠牲者に敬意を表して町の消防団による「消灯ラッパ」の儀礼式がベルギー軍兵士の立会いの下でメーネン門で毎晩執り行われます。

忘れてならないのは、3年ごとに行われる「猫祭り」でしょうか。
毛織物をネズミから守るために猫に番をさせたのに由来する、という話もあれば、悪魔の使いといわれている黒猫を追い出す、ということから始まった、とも言われているようです。

お祭りでは、市民が思い思いの猫の扮装をしてパレードに参加するとか。残念ながら、実は私もまだ見たことがないのです。




 

ギーンゲン

ギーンゲン

2013年04月20日

博物館

 

大きな熊さん

 

博物館内部

 

大小さまざまなぬいぐるみ

 

テディベア売り場

 

ウルムと言う町の北約30キロほどにある、ブレンツ河畔の小さな町がギーンゲンです。

人口約2万人の小さなこの町はテディベアの生まれ故郷として有名です。

1847年に生まれたマルガレーテ・シュタイフは、1歳半の時に小児麻痺にかかったのですが、持ち前の生命力で洋裁学校に通い、優秀な成績で卒業した後に自分のアトリエを開きました。

その後、フェルトで作った象型の針刺しが大ヒット、色々なぬいぐるみを作り始めたのですが、1902年に甥のリヒャルトが考案した手足の動くぬいぐるみがテディベアの始めとなりました。

現在では世界中の子供たちに愛されているテディベアですが、このメーカーのテディベアの特徴は耳に付けられたタッグです。

テディベアのオリジナルとあって、品質は最高の物になりますが、それなりにお値段もよろしいようです。

工場の前には博物館が数年前に建設され、数多くのテディベアや動物たちが、訪れた子供たちを歓迎してくれています。



 

ドレスデン・ピルニッツ宮殿

ドレスデン・ピルニッツ宮殿

2013年04月20日

ピルニッツ宮殿の谷側の宮殿と中庭


 

中庭の噴水と花壇


 

1776年に日本からもたらされた椿


 

温室の花


 

エルベ川の船着場


 

ドレスデンからエルベ川を数キロ遡ると、アウグスト強力王のなつの離宮であったピルニッツ宮殿に到着します。

16世紀から17世紀にかけて、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスなどは国を挙げてアジア、アフリカ、そしてアメリカ大陸に船団を送り、いわゆる大航海時代に入るのですが、ドイツは30年戦争で荒廃し、オランダが独立したことにより、この時代の流れに乗って行けなくなります。

それでも、諸外国の大商人、貴族と同様に、ドイツ貴族の東洋に対する興味、憧れは同様のものであったのでしょう。

アウグスト強力王は、あのツヴィンガー宮殿を設計したマティウス・ダニエル・ペッペルマンにわざわざこの夏の離宮を中国風に建設させました。

宮殿は1724年に完成し、貴族たちのためにメリーゴーラウンドや滑り台、シーソーなどが設置され、さしずめ中国風のディズニーランドの様な催し物も開催されました。

宮殿は中庭を挟んで山側と谷側の宮殿。後方には大きな温室や1776年に日本からもたらされた大きな椿の木、そしてエルベ河畔には船着場が置かれています。

また、この宮殿に隣接している集落には、かのロマン派の大作曲家であり、ゼンパーオペラ劇場の監督でもあったカール・マリア・フォン・ウェーバーが「魔弾の射手」を作曲したと言う家があります。

私のリムジンハイヤーをご用命なさるドイツ個人旅行のお客様には、なるべくお寄りするようにしております。





 

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