エアフルト
エアフルト
テューリンゲン州の州都であるエアフルトは人口約20万人の町ですが、この町は聖ボニファチウスが西暦742年に司教区を置いたことに始まり、キリスト教の町として、そして交易、特にこの地方特産で高額で取引された藍の生産で栄えた町になります。
特に忘れてならないのは、この町の大学は1379年にドイツで3番目に古い大学として創立され、宗教改革の提唱者マルティン・ルターが学びました。
この町は第2次世界大戦でも幸運なことに、ほとんどが破壊されることなく、多くの古い木組の家や建造物が残っており、特に狭い店が立ち並ぶクレーマー橋、フィッシュマルクトのルネッサンス時代のギルドハウス、市役所、ローランド像、大聖堂、そして最近発見されたユダヤ教会(シナゴーグ)など、見所の多い町になります。
エペルネー(フランス・シャンパーニュ地方)
エペルネー(フランス・シャンパーニュ地方)
フランスのシャンパーニュ地方、ドン・ペリニョンで有名なエペルネーの町です。
ご存知の通り、この地方で生産された発泡酒以外は、シャンペンと銘打ってはいけないことになっており、この2万6千人ほどの町にも、多くのシャンパン工場があり、特に、ドン・ぺにニョンの本社であるモエ・エ・シャンドン社の本社家屋は、「シャトー」、と言うよりは、「宮殿」と呼んだ方がぴったりするほどの豪華で巨大な建物で、この「シャンパーニュ通り」には同じように、他の会社の建物がずらりと並んでいます。
この町はフランスで最も裕福な町と言われているそうですが、多くのトラックが町を行き来しており、非常に活気がある印象を受けます。
モエ・エ・シャンドン社では、日本人観光客のために、日本人ガイドがセラー内を案内してくれるのですが、最後にシャンペンを一杯振舞ってくれます。
エルツ城
エルツ城
コブレンツからくねくね蛇行したモーゼル川を遡り、しばらく行くと「Burg Elz」の表示が見えてきます。
Klostermaifeldから麦畑を超えてうっそうとした森の中を走ると、大きな駐車場にたどり着きます。
ここから徒歩で坂道を降りていくと小さな祠があり、その裏の展望台からドイツの名城エルツ城が一望できる様になっています。
この城は、1157年に、赤ひげ王と呼ばれた皇帝バルバロッサからルドルフ・フォン・エルツ侯が寄贈されたもので、回りをエルツ川が流れており、その狭い高台に居城を建設することになりました。
城全体で約80部屋がありますが、土地が狭いため、城の居住する場所は上にと伸びて行き、最高7階までの建物となり、中の部屋は通常では考えられない形に造られているのも珍しくありません。
このエルツ城は、ドイツでも珍しく、「ケンペニッヒ家」、「リューベナッハ家」、「ローデンドルフ家」の3兄弟の系列が共同管理する、ということが決められ、居住区間、台所などもすべて別々に設えられ、最高時には3系列の家族約100人、それに従者が100人の合計200人が生活を営んでいました。
城は戦闘用というよりは、居住用として利用されたものでしたが、1331年から5年間、トリーア選帝侯に包囲されて陥落し、その後は巧みな外交、政略結婚などによってさまざまな戦禍を免れ、現在に至っています。
このエルツ家からは多くのドイツでも重要な人物を輩出しており、マインツ、トリーアの選帝侯にも選出されています。
歴史の中で、ローデンドルフ家は18世紀に後継者が得られずに断絶し、19世紀にリューベナッハ家が継承権をケンペニッヒ家に委譲し、現在は、33代目のケンペナッハ家当主の所有となっています。
城主であるケンペニッヒ家は、普段はライン河畔のエルトヴィレに住んでいますが、シーズンオフにはこの城で過ごすということを聞いたことがあります。
ロマンチック街道のノイシュヴァンシュタイン城ほど有名ではありませんし、観光コースからも外れているので、日本人観光客を目にすることはほとんどないのですが、800年以上もの歴史がある城というのは非常に珍しく、その当時の生活の模様を窺い知る貴重な体験ができます。
ヴェルニゲローデ
ヴェルニゲローデ
旧東西ドイツの国境地帯はハルツ山地地方と呼ばれ、東側の国境に接していた町がヴェルニゲローデになります。
この町を最初に訪れたのは1980年の6月ごろだったと記憶していますが、その時の第一印象は、「町の市役所だけはきれいにしているが、その他は荒れ放題なんだなー」というものでした。
東ドイツ時代は、歴史的建造物の保全に対する興味はあったとしても、そのための費用がない、というのが現状で、子の町の中心をなす多くの木組の建物は荒れ放題という状態でした。
ベルリンの壁が開けられ、統一後には町の整備がかなり進み、現在では観光の町として多くのお客様を呼び込んでいます。
見所としては、町の中心をなすマルクと広場ときれいな木組みの市役所。
町を見下ろすように聳え立つヴェルニゲローデ城。
きれいな木組みの家が並ぶ旧市街。
ハルツ山地地方の最高峰ブロッケンに行くブロッケン鉄道でしょうか(ブロッケン鉄道については別述)。
ウィーンの中央墓地
ウィーンの中央墓地
ウィーンの郊外に大きな中央墓地があり、その一画に「Musiker」という、ウィーンで活躍した作曲家が埋葬されている場所があります。
その中心にはモーツアルトの記念碑(墓ではない)が置かれ、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ヨハン・シュトラウスといった、著名な作曲家の墓標がが囲んでいます。
1975年の2度目のヨーロッパ旅行の際に、ベートーヴェンの墓参りがしたくてここを訪れたのですが、それ以降、再訪する機会が全くなく、やっと2011年の年末にそれがかなました。
1.ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェン
ベートーベンは、ご存知のように「楽聖」と呼ばれる人物で、「運命」、「田園」、「歓喜の歌」といった交響曲、「ピアノ協奏曲皇帝」と表題が付いた曲を多く書き上げ、クラシック音楽界では最高の人物の一人として君臨していますが、プライベート生活はかなり難しかったようですね。
70回階も引越しをしたり、メイドを換えたり、といったように、かなり対人関係では苦労したようです。耳が聞こえなかったという原因もあると思いますが。
彼の功績は、それまで貴族のものであった音楽を一般庶民まで普及させたことではないでしょうか?
チケットを売って演奏会を開催したのは、彼が最初だと聞いています。
そして、葬儀の際には、貴族は誰一人として参列しなかったのに比べ、ウィーンの市民2万人が墓地に運ばれる彼の棺を見送ったとのこと。
臨終の言葉が、「友よ、喝采したまえ。喜劇は終わった」というものだったそうですが、現在では、世界中の演奏会で彼の作品が演奏され、特に日本では年末に第9交響曲が頻繁に演奏されるようになりました。
きっと天国では、誰かさんに、こう言われていると思います。
「これでいいのだ」。
2.フランツ・シューベルト
ロマン派の大作曲家であるシューベルトは、わずか31歳で亡くなります。
幼いころから父親から音楽の手ほどきを受け、寄宿制神学校に進み、次第にその才能を発揮し始めます。
神学校を去ってから代用教員をするのですが、味気ない仕事を投げ出し、作曲に専念し始めます。
ところが、彼の曲は全く売れす、学校時代の友人たちが有形無形の援助を行い、彼を囲んだコンサート「シューベルティアーデ」では、彼の作品が演奏されます。
特に、彼の歌曲、「野ばら」や「「魔王」「冬の旅」は有名ですが、。ある時、友人のピアノの上に楽譜が乗っているのを見つけて演奏し、「なかなかいいね。誰が書いたの?」、という問いに、「何言ってんだよ。それはこの前君が書いたんじゃないか!」、と言われるほど書きまくったとか。
それでも、彼の作品はほとんど日の目を診ることがなく、死後にシューマンが埃をかぶっていた交響曲第9番の楽譜を見つけ、メンデルスゾーンの指揮で発表されてから注目を集めるようになったのです。
彼の遺言は、「ベートーヴェンがそばにいないと・・・・・」と言うのだそうで、今ではベートーヴェンの隣に眠っています。
3.ヨハネス・ブラームス
ハンブルク生まれのブラームスは、その、時としては重苦しいと思われるほど重厚な作品と、ハンガリー舞曲の様な軽快さを持った、何となく両極端のような感じがしないでもないのですが、根底にあるのは、「ズシンッ!!」、と来る豊かで力強い低音部の重さでしょう。
マザコンだった、と言うことも聞いたこともあるのですが、調べてみると、子供たちには優しいおじさんでも、大人に対しては無愛想で皮肉屋だったそうな。
思うに、対人関係とかに関しては、かなり不器用な人だったんではないでしょうか?
ベートーヴェンと同様、自然の中にいることが好きだったのは、そういう理由があるのでしょう。
シューマンは、「彼は天才だ!!」、と絶賛し、クララとはかなり親しかったということですが、恋愛関係はなかったと言われていますし、そうだったと納得しています。
それでも写真を見ると、かなりのイケメンで、若い女性にはかなり憧れの的だったではないでしょうか?
フランソワーズ・サガンに「ブラームスはお好き?」と言う作品があります。
「はい。私は大好きです!!」
4。ヨハン・シュトラウス(2世)
この人なくして、そしてウィーナーワルツなくしてウィーンは語れません。
著名な作曲家であった父親のヨハン・シュトラウスの息子として、父親をしのぐ存在になったのは、やはり、偉大すぎるほど偉大であった、と言えるでしょう。
父親は息子を音楽家にさせたくなかったようですが、「蛙の子は蛙」、と言うわけで、自分の楽団を組織して対抗します。
この時のウィーン市民は、この親子の対立をどう捕らえたでしょうね?
お互いのファン同士が対立したりして。
まだ交通も通信も特にない1800年代に、ヨーロッパ中のみならず、アメリカまで名声が轟き、アメリカ演奏旅行ではお客様が常に超満員。今で言うマイケル・ジャクソンのコンサートのような感じだったのではないでしょうか?
「キャー!!!ヨハン様〜〜〜〜〜!!!」。
「ウィーンに行けばいつでもどこでもウィーナーワルツが聴けるか?」、と問われれば、自信を持って、「イエス!!」、と応えることができます。
さすがに、ウィーナーフィルハーモニーと言うわけには行かないのですが、それなりにちゃんとした演奏だし、何よりも、演奏する方も、聴く方も和気藹々としている雰囲気がすばらしい。