アイゼナッハのワルトブルク城
アイゼナッハのワルトブルク城
フランクフルトからアウトバーン5号線を北上し、4号線から旧東ドイツに入ると右側に山の上にそびえるお城が見えてきます。
これがドイツ人にとっては歴史上、非常に重要な役目を果たしたアイゼナッハのワルトブルク城です。
1067年、若きルートヴィッヒ・デア・シュプリンガーが狩に出た際、前方にそびえる山が非常に気に入り、「Warte Berg, hier sollst Du meine Burg werden(山よ待っていてくれヴァルテ、ベルク。 ここに城を造ってやろう)」、という話からワルトブルクという名前がつけられたということです。
このお城は、中世の時代に広くは現在のテューリンゲン州のみならず、隣ののヘッセン州まで勢力を伸ばしたテューリンゲン辺境伯の居城として非常に栄えました。
このお城にまつわる歴史的な事実として最も重要なのは、何と言っても、宗教改革者マルティン・ルターが、この城跡にユンカー・ヨルクという名前でかくまわれた折り、ギリシャ語の新約聖書をドイツ語に訳したということでしょう。このルターのドイツ語が現在のドイツ語の基礎となっているということです。
また、中世の時代にはヨーロッパ中の吟遊詩人たちが集まり、歌合戦を行ったといわれており、この逸話を基にしてロマン派の、大作曲家リヒャルト・ワーグナーはうタンホイザーというオペラを書き上げました。
忘れてならないのは、聖エリザベートという女性です。
ハンガリー生まれのエリザベートは4歳のころにワルトブルクに送られ、14歳で領主のルートヴィッヒ4世とと結婚しましたが、貧しい人たちのために奉仕し、現在でもその名前がさまざまな社会奉仕施設などに使われています。
1817年、イエナ大学の学生500人が、宗教改革300年、ナポレオン戦争4周年を記念し、ドイツの統一、自由、正義を求めて総決起大会をこの場所で行ったのですが、その学生回の旗に使用された赤、黒、金が、ドイツ国旗の3色となりました。
最後に、ロマンチック街道のハイライトである、ノイシュヴァンシュタイン城の建造主であるルートヴィッヒ2世も、1876年にこのお城を訪問し、ここのお城の祝祭の間に魅了され、コピーとも思える広間を彼のお城に建造しました。
この様に、ワルトブルク城は、ドイツ人、ドイツの歴史にとっては非常に意味のあるお城であり、ぜひとも訪れていただきたい場所なのです。
アーヘンの大聖堂
アーヘンの大聖堂
アーヘンという町はドイツの最西端に位置し、オランダとベルギーの国境にも近い町です。
1978年に世ドイツで最初の界遺産のひとつとしてとして指定された大聖堂は、786年に建設が始められ、北ドイツでは最古の教会になります。
その後、ロマネスク、ゴシック様式などの増設がなされ、今のような形になりました。
936年から1531年まで、歴代の当時のドイツである「神聖ローマ帝国」の30人の皇帝の戴冠式がこの教会で行われました。
ドームの中心をなすオクタゴンと呼ばれるホールは、ビザンチン様式を手本に、793−4年ごろに建造され、ここが皇帝の礼拝堂となりました。
1000平米以上のステンドグラスが輝くガラスの礼拝堂は1414年にゴシック様式で完成されたものです。
この教会に隣接する財宝館も非常に見ごたえがありますので、どうぞお忘れなく。
ビールの話
ビールの話
オクトーバーフェストのお話が出たので、ビールのことをお話しすることにします。
ドイツには、「ビール純粋法」、と言う法律があり、「ビールは水、ホップ、麦芽、酵母以外で作ってはならない」、と言うことが決められています。
この法律は1516年に」ミュンヘンで発行された法律なのですが、これが食品に関する世界最古の法律となります。
さて、その試験方法なのですが、現在のように科学的な試験方法というのはあるはずもなく、以下のような方法が採られたとのこと。
まず、木製の長椅子の上にビールを撒き、その長椅子によく見かける民族衣装の革製の半ズボンを履いた3人の男が座り、数時間、そのまま動かずに乾くのを待って、・・・この場合、もちろんビールを飲みながらでしょうが・・・一斉に立ち上がり、長椅子がズボンに張り付いて持ち上がった場合は検査に合格、と言うことだったそうです。
この法律があるため、ドイツでは日本のビールのような、米とかコーンスターチが入っているビールはビールではありません。ましてや、第2のビールと言われる発泡酒などとんでもない、と言う感じでしょうか。
ドイツのビールは本当においしいですし、しかも安い!!
スーパーマーケットで0.5リットル入りが安いビールだと35セント(約35円)!!
このビールがおいしくて安いと言う理由だけで、私はドイツに住み着いたと言っても過言ではありません(うそです)。
夏の暑い時に飲むビールは本当においしいですね。
これに枝豆とか焼き鳥があったら、もう言うことありません。
ハイデルベルク大学
ハイデルベルク大学
ハイデルベルク大学は1386年に創立され、その当時の「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」の1348年のプラハ大学、1365年のウィーン大学に次いで3番目の大学としてルプレヒト3世によって創立されました。
つまり、現在のドイツで最古の大学と言うわけです。
当時、フランスで宗教上の紛争があり、教職員や学生がハイデルベルク大学に移籍し、1年ですでに500人の学生が学んでいたと聞いています。
その後、ファルツ地方の首都にある大学として成長するのですが、18世紀後半から急速に衰退し、1803年には学生が40人しか在籍していませんでした。
それを重く見た新しい領主バーデン侯カールが大学の復興に尽力し、その功績により創立者の名前とともに、大学はルペルト・カローラ大学と言う名前がつけられています。
現在では学生と教職員を合せて約4万人が在籍しており、ハイデルベルクで最大の職場を提供している機関になっています。
ノーベル賞受賞学者も10人以上おりますが、日本人にとって有名な人と言えば、化学実験に使用するブンゼンバーナーを製作したブンゼン、科学の周期律表を作ったキルヒホッフが挙げられます。
また、作曲家のローベルト・シューマンは1820−21年に法学部に在籍していましたが、音楽家になる夢を捨てきれず、この地を去っていきました。
現在でも、町の中に大学があり、大学の中に町がある、と言う感じで、教室が散らばっていますが、旧市街には旧校舎、新校舎、そして1712−1914年まで使用された学生牢があり、学生牢と旧校舎の記念講堂の中は見学できるようになっています。
ハイデルベルク城
ハイデルベルク城
ドイツで最も有名な城跡のひとつであるハイデルベルク城は、1300年ごろから築城が始められると同時に、ファルツ選帝侯の居城としてその栄華を誇ります。
ところが、1671年に領主の娘であるリーゼロッテとフランスのルイ14世の弟オルレアンと政略結婚がうまく行かず、1689年と93年の2回にわたって城と町は徹底的に破壊されます。
その後、お城は修復にされかかるのですが、1786年に落雷によって3日3晩炎上した後は廃墟となり荒れるがままに放置されました。
ところが、1900年ごろにグライムベルクと言うフランス人がこの城に取り付かれて城に住み着くと同時に保存に努め、現在ではその当時の廃墟となった姿が世界中の観光客を魅了しています。