ワーテルロー古戦場
ワーテルロー古戦場
ベルギーの首都ブリュッセルから南に20キロほど行くと、ワーテルローの古戦場跡に到着します。
ここは、1813年に失脚してエルバ島に流されたナポレオンが、島から脱出してフランス軍を再編成し,リヴェンジを図った1815年6月18日の最後の戦場となった場所です。
7万2千のナポレオン軍と、イギリスのウェリントン将軍の率いるイギリス、ベルギー、オランダの6万8千人、合計14万人の軍隊が、その運命を賭けて対戦するのですが、前日の大雨で泥濘のために大砲が動かせず、ナポレオンは攻撃開始を2時間半遅らせました。
結局は、この2時間半が仇となり、救援に駆けつけた老将軍ブリューヒャー率いるプロイセン軍によってナポレオン軍は総崩れとなります。
正に、「勝敗は時の運」と言うわけです。
この古戦場には、その後、ライオンの丘が築かれ、この古戦場を一望できるようになっていると同時に、その下には博物館が建設されました。
この丘からは、戦場の舞台となったヒューゴモン、ラ・アイエ・サンテの農家、ウェリントンとブリューヒャーが勝利の握手を交わしたラ・ベル・アリアンスなどが眺められます。
「夏草や、兵どもが夢の跡」。
変哲もない、ただの大きな農場なのですが、個人的に好きな場所なので、個人旅行の私のお客様に対して、なるべくドラマチックに説明しながら、この戦場をご案内することにしています。
ワイマール
ワイマール
ワイマールという町は、日本人にとっては馴染みの薄い町になりますが、ドイツ人にとっては非常に歴史的意義のある町になります。
まず、17世紀後半、ドイツがまだ「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」と呼ばれ、約300の小さな国に分かれていた頃、ワイマール公国のカール・アウグスト公は、この町にゲーテ、シラーと言った劇作家、音楽家のフランツ・リストなどを招聘してドイツ文化の中心地としました。
また、1919年、第1次世界大戦後の混乱時期、共和国となったドイツは、政情不安であったベルリンを避け、この町で現在のドイツの基本法の元になったいわゆるワイマール憲法が制定されました。
その会議場であったワイマール国民劇場の前には、ゲーテとシラーの像が建てられていますが、この銅像は、かの有名なバイエルン王国のルートヴィッヒ2世の祖父に当たるルートヴィッヒ1世から寄贈されました。
この国の総理大臣とも言える大柄であったゲーテと、イエナ大学の教授であった華奢で小柄なシラーは、同じ大きさで並んでいますが、これは、両者とも、ドイツ文学に貢献した功績は同等のものであった、と言う解釈に寄るものだそうです。
人口6万人ほどの町ですが、多くの音楽家を排出したフランツ・リスト音楽大学では、夏に行われる音楽講習に多くの音大生が世界中から集まります。
見どころとしては、ゲーテとシラーの家、国民劇場、ゲーテの別荘がある公園、郊外のベレヴェデーレ庭園でしょうか。