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日本人ドライバーガイドのブログ

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ウルム

ウルム

2012年10月16日

ウルムの大聖堂

 

漁民地区

 

シーフェス・ハウス

 

ドナウ川

 

市役所

 

ヴェニスの権力、
アウグスブルクの豪華さ、
ニュルンベルクの冗談、
シュトラースブールの大砲、
ウルムの貨幣、
が世界を支配する。

と言われたように、このドナウ河畔の町は鉄、織物、塩、木材、ワインの集積地として1500年代には、その勢力を欲しいままにしたということです。

町の中心にそびえる161.5メートルの高さを持つゴシックスタイルの大聖堂は、世界最高の高さを誇り、140メートルの場所まで768段の階段を使って登ることができます。

見所は、この大聖堂と、木組みの家が並ぶ漁民地区、特にギネスブックにも載っている「シーフェス・ハウス(傾いた家)」、と言うホテルは必見です。

道順としては、この漁民地区を通ってドナウ川に出てから、大聖堂、そして市役所という感じでいけば、無駄のない時間が過ごせるでしょう。

有名な人物は、まず1879年に粉の町で生まれたアインシュタインが挙げられます。
後に「音楽界の帝王」と呼ばれるカラヤンは、音楽学校を出た後、この町の劇場に職を得ます。
フランスの哲学者デカルトは、旅の途中でこの町の近郊に逗留し、「驚くべき学問の基礎」を見出したといわれています。「我思う、ゆえに我あり」。


 

アウグスブルク

アウグスブルク

2012年10月14日

1620年建設の市役所。
屋根には豊穣のシンボルで市の紋章の松かさ。

 

フッゲライの施設内

 

ガイドのおじさん

 

当時の室内の模様

 

隣接の教会

 

アウグスブルクは人口約26万人のロマンチック街道で最大の町で、バイエルン州でもミュンヘン、ニュルンベルクについで第3番目に大きい町になります。

ローマ皇帝アウグストゥスが紀元前15年に、この地に軍団用の貯蔵庫を作るように指令したことからアウグスブルクと名づけられ、トリーアと並んでドイツで最も古い町と言われています。

この町は、ロマンチック街道が、インドや東南アジアからイスラム世界に運ばれた後、地中海のヴェニスやジェノヴァで陸揚げされた香辛料の交易で栄えた時代に最も勢力を持っていた町と言われています。

町にはウェルザーやフッガーと言った大商人が活躍していたのですが、特にヤコブ・フッガーはオーストリアのハプスブルク家に取り入り、いわゆる御用商人としてさまざまな利権を獲得し、さらには、教会が発行した免罪符の取り扱いを一手に引き受けることでさらに富を集め、ついには、「イタリアのメジチ家か、アウグスブルクのフッガーか」、と呼ばれるほどの大富豪に出世します。

そのヤコブ・フッガーが1523年に建てた世界で最初の貧しい人たちのための社会住宅が、「フッゲライ」、と呼ばれる施設です。

あのモーツァルトの曽祖父フランツ・モーツァルトは左官職人だったのですが、ここに住んでいました。

この施設は本来、日雇い労働者や貧しい職人のために建てられたもので、その家賃は年間で当時の1ライニッシェグルデンと決められていましたが、現在でもその家賃が維持されており、0.88ユーロ(約90円)と言うことです(光熱費は別)。

最初は52世帯でしたが、次第に拡張され、戦災でかなり破壊された後はさらに拡張され、現在は140世帯がこの施設で生活をしています。

どちらかと言えば、現在では1世帯約60平米の老人ホームのような形で使用されているようですが、入居するにはフッガー財団に申請をして許可を得るなければなりません。

また、ヤコブ・フッガーが提示した条件を守らなければならないのですが、その条件とは、「毎日3回の礼拝に出席し、フッガーのためにお祈りをささげなければならない」、と言うものだそうです。
 
以前は一般の人たちも施設の中に入れたのですが、最近は2ユーロの入場料を徴収するようになりました。

年間家賃のざっと2倍以上というわけです。

 

アルスフェルト

アルスフェルト

2012年10月13日

市役所とワインハウス

 

さらし台の鉄輪

 

こういう感じです(笑ってはいけません)

 

木組みの家

 

中には近代的な建物も

 

メルヘン街道の赤頭巾ちゃんの故郷であるシュヴァルム地方の中心地アルスフェルトの町にやってきました。

この町はフランクフルトから北東に約100キロほど離れた町ですが、中世の木組みの家が立ち並ぶかわいい町です。

町の中心には1516年に建てられた木組みの市役所があるのですが、地階は市が立った時に、雨が当たらないようにアーケードになっています。

この屋根の下では、デリケートな香辛料や布地が売られました。

隣には石造りのワインハウスが立っていますが、ここはかつてはワイン倉庫として使われたと同時に、ワインが飲めるようになっていました。

この建物の角に、鎖がつながれている鉄輪がぶら下がっているのですが、これは悪事を働いた人をさらし者にするために使われました。

このマルクト広場に集まった人たちは、さらし者になった人に唾をを引っ掛けたり、腐った卵などを投げつけて懲らしめたというわけです。

 

アーレン(リーメスの遺跡)

アーレン(リーメスの遺跡)

2012年10月11日

駐屯地跡

 

リーメスの柵と見張り櫓の模型

 

リーメスの伸びている地形の模型

 

ローマ軍団兵士

 

使用された大鍋

 

西暦9年、ローマ帝国はゲルマン民族にトイトブルクの森の戦いに敗れ、その国境をライン川まで後退することを余儀なくされ、マイン川からレーゲンスブルク付近まで軍事境界線として防塁を築くことになった。これが全長580キロに上る、「リーメス」、と呼ばれる境界線になります。

中国が築いた万里の長城とは違い、木の柵、石塁、堀などによって築かれたもので、ゲルマン民族とはある程度の経済的なやり取りもあったということです。

そのリーメスの遺跡があるアーレンのそばまで仕事で行く用事があり、その合間を見て博物館を訪問しました。

ローマ軍の駐屯地であった場所が遺跡として残され、博物館として公開されています。

 

アイゼナッハのバッハハウス

アイゼナッハのバッハハウス

2012年10月06日

バッハ像

 

バッハ博物館

 

中庭から見た旧館

 

居間の様子。卓上用のグラビコードが置いてあります。

 

ミニコンサート

 

アイゼナッハが生んだ、音楽の好きな方であれば誰でもその名を知っている、俗に大バッハと呼ばれるヨハン・セバスチャン・バッハは、1685年に町の音楽師をしていたアンブロジウス・バッハの末子として生を受けました。

10歳の時に相次いで両親が乳が亡くなり、長兄に引き取られて音楽の手ほどきを受けた彼は、18歳の時に音楽家として活動を始めます。

アルンシュタット、ワイマール、そしてケーテンの楽士長を歴任し、1723年、ライプチッヒのトーマス教会のカントーアとして1750年に死去するまでその任を全うします。

その後、あっという間に世の中から忘れ去られるのですが、作曲家のメンデルスゾーンが再発見してから再び脚光を浴びるようになり、、今では音楽の父として世界中に熱狂的なバッハファンが多く存在します。

現在のバッハ博物館は、長い間生家と思われていたのですが、最近の研究では、それが間違いだということが分かり、その当時の人たちが、「こういう感じで生活していたであろう」、という形で公開されています。

数年前、近代的な資料館も隣接し、多くの作品をヘッドフォンで鑑賞することも可能ですし、旧館内の1階では、当時の楽器を使って訪問者のためのミニコンサートも行われます。

 

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